チュ〜モク番組!!
ヌシ・コヌシ
郵便兵と絵手紙 〜 孫娘が語り継ぐ祖父の戦争 〜
 5月4日(水)午後4:44〜5:39放送
 中京テレビ制作


昼下がりの喫茶店。やわらかな日差しに包まれ、はがきに描かれた絵が数点、その脇にはグランドピアノ…。石塚まみさん(39歳)が絵を見せながら小さなコンサートを開いていた。「私の祖父は、第二次大戦中ビルマに派兵されていて、戦地から私の祖母と当時3歳だった母に100通もの絵手紙を送ってきていたんです―」。
じっとこちらを見つめる少女やいきいきと働く人々など、絵手紙には心優しいまなざしでビルマの人々が描かれている。
孫娘のまみさんは、少女のころからこの絵手紙に惹かれ続けてきた。一枚一枚に祖父のあふれる思いが込められていると感じてきたからだ。その暖かさはいったいどこからくるのだろう…祖父は戦場で何を思っていたのだろう…、ずっとそれを考えてきた。


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 岐阜市出身の祖父・後藤一味(かずみ)さんは、『郵便兵』として召集され、悲惨な戦闘で知られるビルマで戦死した。太平洋戦争の前線に『郵便兵』が赴いたことを知っている人は少ない。戦地に行った元兵士ですら、その存在を知らない人も多い。この60年語られることがなかった郵便兵…。今も岐阜で暮らす祖母・隆子さん(83歳)も、送られてきた手紙で、夫が郵便兵であったことを知った。詳しいことはわからず、遺骨すら帰ってきていない。 
しかし、一味さんら郵便兵は重要な任務を果していた。郵便局などに勤務する民間人と召集された兵で混成された『野戦郵便隊』は、日本軍の部隊とともに動き、軍事郵便物の集配や、戦地で支給される給料の貯金・送金業務を行った。時には、敵の猛爆をくぐりぬけ重要書簡を前線に送り届けるため派遣されることもあった。ひとりひとりの兵と故郷の家族の心を結ぶ『郵便兵』として3年あまりを戦地ビルマですごし、そして死んでいった祖父…。


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まみさんはこの春、祖父の足跡をたどる旅に出た。絵手紙に描かれた風景や人々の様子のその奥に、祖父はどんな思いを託していたのだろうか…。


 あれから60年。ビルマ(現ミャンマー)には、祖父が描いた絵手紙のままの風景、心暖かな人々の営みがあった。「ひょっとしたら祖父も、こんな暖かさに触れて心を動かされたのだろうか…」まみさんは思う。
しかし当時、戦争は、そんな心優しいビルマの人々をも巻きこみながら悪化の一途をたどっていた。祖父の絵手紙や手紙の文面を頼りに旅を続けるうち、様々な厳しい現実を知る。
当時小学生だったチッセさんからは、日本の『皇民化教育』の本を見せてもらった。そして「日本のいう『ビルマの独立』が名目だけのものだったと知るようになり、また闘うようになった。」と聞く。
日本軍の通訳を務めていたウー・ティーさんからは、「女性も子どもも、たくさんのビルマ人が爆撃で死んだ。日本兵も敗走していく時は悲惨だった。食べる物も着る物も薬も何もない…」と、惨状を極めた戦場の様子を聞いた。
 また、残留日本兵を父に持つキン・トゥさんからは、「日本軍に協力したビルマ人がうらぎり者としてビルマ人から殺された。ビルマ人同士が憎しみあった。その思いは戦後もしばらく続いた」と聞いた。初めて知る、絵手紙の奥にあった現実…。


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 まみさんは、祖父・一味さんが戦死したというプローム(現ピィ)を訪ねる。当時、追い詰められた日本軍が決死の渡河作戦を行った場所だ。祖母は戦友から、「後藤は川を渡ったところで爆撃にあって死んだ」と伝え聞いている。敗走につぐ敗走。その日々に通訳として同行していたサンペイさん(83歳)は、「日本軍の当時の様子を聞きたい」というだけで大泣きに泣いてしまう。
一味さんが戦死した場所、それは『ジンジャ街道』と呼ばれる一本道だった。「そこを通れば必ず死ぬ。靖国神社へと続く道」と日本兵たちに呼ばれていた。そして、決して引き下がることを許されない『死守命令』のもとで、兵士たちは死んでいったのだ。
祖父が戦死したと思われる場所に立ったまみさんは、戦死した全ての人に、そして苦しんだミャンマーの人々に心を込めて、ひとつのメロディーを口ずさみ、捧げた。


祖父の死から60年。
まみさんは、きょうも祖父の絵手紙と一緒に、小さなコンサートを続けている。
祖父の戦争を今、孫娘が語り継いでいる。
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