吉田沙保里の原点「金メダルはスーパーには売ってない」 母と振り返るレスリング人生
※この記事は2019年3月、中京テレビで放送した「母と娘の金メダル ~吉田沙保里、幸代~」を再構成したものです。
オリンピック3連覇。獲得した数々の金メダル――。
「霊長類最強女子」と聞けば、多くの日本人が彼女の顔を浮かべます。
2019年1月、現役引退を発表した吉田沙保里さん。間近で支え続けた母の幸代さんと、その歩みを振り返ります。
「あぁ、女か――」レスリング一家に生まれた“待望の女の子”
1982年、自宅でレスリング道場を開く父のもとに生まれた沙保里さんにとって、レスリングとの出会いは“必然”ともいえるものでした。
しかし、吉田家にはすでに沙保里さんの兄が2人。
息子たちのオリンピック出場を目指し、指導に打ち込んでいた父・栄勝さんにとって、“娘”の誕生は必ずしも喜べるものではなかったようです。
「(女の子が生まれて)すごく嬉しかった」(母・幸代さん)
「待望の女の子だったらしいですよ」(沙保里さん)
「私にとっては待望の女の子だったけど、主人にとっては『あぁ、女か』と。女の子が生まれたなら見たいと、当時5歳の息子が主人を病院に連れてきたんです」(母・幸代さん) とはいえ、幸代さんにとっては間違いなく“待望の女の子”だった沙保里さん。
「女の子らしく」と育児に励む幸代さんの思いは、意外にも沙保里さん本人によって崩されてしまいました。
「スカートを作って履かせたりとか、髪を伸ばして結ってとか、色々してたのに『私ズボンがいい』って。『私なんで女の子に生まれたん?男の子がよかった』と言われたんです」(母・幸代さん)
「お兄ちゃんをみて育っているからね」(沙保里さん)
幼少期は「期待されていなかった」
レスリング一家に、女の子として生まれた沙保里さん。当初は両親も、2人の兄のようにレスリングを教えるつもりはありませんでした。
「レスリングをさせよう、という気持ちは主人も私もなかった。お兄ちゃん2人を強くさせようとやっていたので」(母・幸代さん) そんな吉田家の中で、自身のことを「期待されていなかった」と振り返る沙保里さん。幼いころは、兄のように練習に打ち込むこともありませんでした。
「ちょっと練習しては、お母さんの膝の上に座っていたのは覚えています」(沙保里さん)
「主人も何も言わなかった。30分ころんころんと練習したら『はい一日終わり』という感じ。」(母・幸代さん)
「(父は)お兄ちゃんをオリンピックに出したかった。お兄ちゃんたちの練習を見て『ああしたらいいのに』とお母さんと話していたら、お父さんに何か言われたよね」(沙保里さん)
「『うるさい!お前は黙っとけ!』って。3歳のとき」(母・幸代さん)
その後も両親が、沙保里さんにレスリングを勧めることはありませんでした。
“負け”から始まった吉田沙保里のレスリング人生
では、沙保里さんが「世界一」になるほどレスリングに打ち込んだきっかけは、何だったのでしょうか?
理由のひとつは、父の栄勝さん。家族はみんなで同じことに取り組む――そんな考えが、沙保里さんのレスリング人生のきっかけとなったのです。「家族がばらばらにならないように、という方針だった。だからこの人(沙保里さん)も仕方なしに、強制的に道場に入った」(母・幸代さん)
「強制です。でも、それが日常だった」(沙保里さん)
しかし、「霊長類最強女子」誕生のきっかけは、それだけではありません。もうひとつの理由は、沙保里さん自身の体験でした。
「はじめて試合に出て負けたんやな」(沙保里さん)
「一応お兄ちゃんたちと練習はしていたので、初めての試合に出ようかと登録して。この子(沙保里さん)に勝った子が金メダルをぶらさげていた」(母・幸代さん)
「あれが欲しい!って。負けから始まったんだよね」(沙保里さん)
「負けなかったら、今の吉田沙保里はないかもしれない」(母・幸代さん) はじめての試合で味わった「敗北」という体験。ライバルが手にした「金メダル」への憧れ。ここに、沙保里さんの原点があったのです。
「(父・栄勝さんが)金メダルはスーパーでは売ってないんだぞ、って。頑張って練習をして強くなって、勝った子にしかもらえないって。そこからすごく練習をするようになった」(沙保里さん)
「反抗期なし」の子育て
父・栄勝さんが自宅に作った道場で、日々練習に励む沙保里さん。沙保里さんの代名詞「高速タックル」も、ここで栄勝さんから叩きこまれたものです。
そして、両親との暮らしのなかで沙保里さん自身も形作られていきました。
「反抗期なし。この人は」(母・幸代さん)
「怖かったもんね、お父さんが。なるようにしかならないって育てられた」(沙保里さん)
「よその家が旅行に行った話をすると、主人が『よそはよそ、うちはうち』って。それから『どこへ連れていけ』とか言わなくなった。小さいながらに理解して育った」(母・幸代さん)
月日は流れ、自宅でレスリング漬けの毎日を過ごしていた沙保里さんが、親元を離れる時が来ました。大学へ進学し、寮へ入ることになったのです。「寂しい気持ちはないと思っていたんですけど、うつ状態のように、壁のほうを向いて寝ていたいという気持ちになった。この私が」(母・幸代さん)
「この私が、っていうのは皆わからないから(笑)」(沙保里さん)
「私の分身みたいなところがあった。どこへ行くにも連れていくし、何かあれば話を聞いてくれていた。寂しかったのかな、自覚はなかったけど」(母・幸代さん)
新たな仲間に囲まれる環境で、寂しさはさほど感じなかったという沙保里さん。しかし、父・栄勝さんの勧めで進学した大学生活に、一度だけ弱音を吐いたことはあるそうです。
「辞めたいって言ったら『大学はそういう所や、お前が決めて行ったんやろ』って。いやいやお父さんが決めたんや、って心の中では思ったけど」(沙保里さん)
「確かに(笑)」(母・幸代さん)
「帰ってくる家は無いぞと言われて。私ここでやっていかなアカン、頑張ろうと思った」(沙保里さん)
憧れの舞台
レスリング一家・吉田家の目標は「オリンピックに出場すること」でした。
「オリンピックが本当に夢だった。主人がずっと『オリンピックに勝ったら人生が変わるぞ』と合言葉のように言ってきた」(母・幸代さん)
そんな憧れの舞台が、頑張って手を伸ばせば届く距離まで近づいてきました。2004年のアテネオリンピックです。
沙保里さんは当時のライバル、山本聖子さんに見事勝利し、初のオリンピック出場を勝ち取りました。家族全員の夢が叶ったのです。
「オリンピック出場が決まったときに『レスリングをやっててよかった、ありがとう』と初めて言われた」(母・幸代さん)
「(山本さんには)本当に勝てないと思っていたからね」(沙保里さん) 初のオリンピックという舞台に、胸が躍ったという沙保里さん。ここで再び、レスリングに打ち込むきっかけとなった「金メダル」への思いを燃やすことになります。
「憧れのヤワラちゃんが一緒に出場しているのがすごく嬉しくて、選手村で金メダルを見せてくれた。手に取った瞬間に、私もこの同じ金メダルが欲しい!と思って。やっぱりメダルに弱いのかな、私」(沙保里さん)
「霊長類最強女子」
沙保里さんはアテネオリンピックで金メダルを獲得。そして、北京、ロンドンでも世界一に輝き、オリンピック3連覇を果たします。
その後、国民栄誉賞を受賞した頃から「霊長類最強女子」と呼ばれるようになりました。
「一番最初は霊長類最強の意味がわからなくて」(沙保里さん)
「ゴリラか!と思った、うちの娘を」(母・幸代さん) 勝利を重ねるごとに強まる、周囲からの期待の目。しかしそんな環境の変化のなかでも、沙保里さんの性格が変わることはなかったそうです。
「娘自体は何も変わらなかった。小さい頃のまま、性格は」(母・幸代さん)
「全然成長してないってこと」(沙保里さん)
「それなりには成長してるけどね、カラーは変わらないというか。天狗になるわけでもなく」(母・幸代さん)
勝っても天狗になるな――。沙保里さんのなかには、父・栄勝さんのそんな教えも強く刻まれていました。
父・栄勝さんとの“突然の別れ”
父として、師匠として――。誰よりも、沙保里さんの成長を楽しみにしていた栄勝さん。
2014年3月、61歳で急逝しました。 突然の別れから、わずか4日後。沙保里さんはワールドカップに出場し、優勝を果たしました。次の目標は、4度目のオリンピック優勝です。
「主人がいないオリンピックは初めてだから、どうにか無事終わってほしかった」(沙保里さん)
しかしこの頃、父の死に加え、疲れが取れにくくなり、沙保里さんは体力の限界を感じていたといいます。
リオオリンピックの舞台で、後輩選手が立て続けに金メダルを獲得するなか――沙保里さんは決勝で敗戦。オリンピックで初めて、金メダルを逃したのです。
試合の直後、試合を見守った母のもとへ駆け寄った沙保里さん。「お父さんに怒られる」と泣いたその姿は、日本中の心を揺さぶりました。
「決勝戦が始まるアナウンスの前の顔が、いつもと全然違った。悲壮とまでは言えないけど、生気がないというか」(母・幸代さん)
「顔がこわばっていたのかな」(沙保里さん)
「大丈夫かな、負けるんと違うかなと。そこにお父さんがいたらどんなアドバイスをしたんだろう」(母・幸代さん)
「現役引退」決断まで
はじめて金メダルを逃した、リオオリンピック。実はこの時すでに、沙保里さんの頭の中には「引退」という言葉があったそうです。
「リオで引退しようと、どこかで決めている部分があった。あとこれだけ練習したら、もう練習しなくていいや、とか。そう思う時点で、気持ちがもうだめでしたね」(沙保里さん)
「気持ちが切れていたんだね」(母・幸代さん)
リオオリンピックの後、沙保里さんは「生まれて初めて、夢と目標が明確にない」と漏らしていました。東京オリンピックに出たい――そんな気持ちを頼りに、後輩の指導に力を注ぐ一方、地震のトレーニングも続けていました。
現役続行か、引退か――。決断できないまま、時間だけが過ぎていきました。
リオオリンピックから約1年後の国際大会。沙保里さんはレスリング人生で初めて、選手ではなく解説者として会場を訪れました。
「私は娘に『もう引退したら』とは言っていました。結婚してほしい気持ちも強くあったし、もう十分頑張ったから」(母・幸代さん)
「自分が負けることを想定していなくて。少しずつやろうかなと思うようになっても、気持ちが追いつかなくて、最終的には試合に出る気持ちになれなかった。やり尽くしたな、って」(沙保里さん)
そして沙保里さんは、現役引退を決意したのです。
華があるときに終わりなさい――。父・栄勝さんが生前に語った言葉も、沙保里さんの心の中には響いていました。
笑顔の引退会見
2019年1月、沙保里さんの引退会見が行われました。親子2人の目に涙は一切ありません。 会見を見守る母の手元には、父・栄勝さんの写真がありました。
「ここへ来る前に、主人の仏壇に『お父さん、引退するけどいいよね』って。いいって言ってると思うよ、という話を2人でしてきた。よく頑張ったと思います。」(母・幸代さん)
負けから始まった、33年間のレスリング人生。
「33年間、よくずっとやってこれたなと思う。でも、ここまで1つの事を頑張ってこれたのは、人生1度きりですけど、よかったかなと思います」(沙保里さん)
「もう何も望むことはないです、これ以上は」(母・幸代さん)
幼い頃、スーパーには売っていない「金メダルが欲しい」と言った沙保里さんを、幸代さんは笑顔で見守ってきました。親子で掴んだ17個のメダルは、今も輝き続けています。