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【戦後75年特集】「家族がいて笑顔を見ることができる」 いま平和をかみしめる人々の体験 忘れえぬ味は「ドーナツ」「麦の粥」 伝え継ぐ「戦争の記憶」

報道局
特集 戦後75年 2020/08/12 19:00

 あの時食べた忘れられない味、って誰にもありますよね。75年前に食べたドーナツの味がずっと忘れられないという男性。10歳のときの体験です。

 

 “忘れられない味は、なんですか?”。街の人に聞きました。

「おばあちゃんの家に帰省した時にいつも大きいスイカを用意してくれていて、みんなでワイワイ食べた楽しい記憶とか。おなかいっぱいになるまでスイカを食べた満足感とかを思い出す」
「家族で作ったお好み焼きですかね。子どもでもいじれるじゃないですか、コテを使って」(街の人)

 その味も、世代が変わるとちょっと違うようで…

「チョコレート」(年配の男性)

 そう話す男性の忘れられない味は、“終戦直後”の味。

「(食べた後でも)銀紙のにおいをかぐとチョコレートのにおいがして。そりゃ格別ですわ、銀紙を鼻につけて歩いていた」(年配の男性)

 今も街に残る、戦争の記憶。

 

 10歳の時に食べたドーナツの味が忘れられない、という男性は…。

「すごくうれしいというか…何もかも忘れちゃうくらい、うれしい味」(後藤幸夫さん)

 再開発が進む名古屋駅の周辺。

「もうちょっと薄暗い全体的にこんな明るさがなかった」(後藤幸夫さん)

 そう語るのは、後藤幸夫さん(85)。10歳の時の体験を語ってくれました。

 後藤さんが向かったのは、駅の西側にある神社「椿神明社」。

「木もこんなに成長したんだから…。石垣、このあたりも変わっていない。これは当時のまま」(後藤さん)

 境内は、75年前からずいぶん様変わりしているようです。というのも、現在この神社もリニア開業に伴って移転工事の真っただ中。

 後藤さんは75年前、ここで野宿をしたことがあるんだそうです。

「手洗い場があるね、その向こうが軒下みたいになっていた。縁台みたいに台があったと思う。その下で(野宿した)。店の前で寝ると邪魔くさいので(怒って)警察に連絡されると、路上生活者狩りみたいなのをしてみんな連れて行った。私みたいな子どももいると警察に連れられちゃう」(後藤さん)

 戦争で家を焼け出され肉親も失った、戦争孤児たち。まるで野良犬を扱うように、収容所に入れられました。

 生きる気力すら失ったこどもたち。名古屋駅のすぐ近くに住んでいた後藤さんも、空襲で家も母も失いました。

「(母の遺体には)顔にススが少しついていたけど、きれいだった。本当に亡くなったのかと」(後藤さん)

 空襲のとき、後藤さんは疎開先の愛知県一宮市から燃える名古屋の街を見て、心配していました。そのとき父親はすでに亡くなっており、残された肉親は3歳下の弟と2人きりになりました。

「養護施設に入ってから東山動物園に連れて行ってもらったとき、家族連れをみると、母が生きていたら今ごろこうして来ていたんだろうなと悲しくなった」(後藤さん)

 養護施設へ入るまで、時に神社をねぐらにして過ごした日々。その中で記憶に刻まれた忘れられない味があるといいます。

「おばあさんが自家製のドーナツをくれた。うれしかった。本当にうれしかった」(後藤さん)

 見知らぬ人からもらったドーナツ。ほんのり甘く、どこか母親の面影を感じさせる味でした。

「うれしいというか幸せを感じるというか。急にパーっと…。何もかも忘れるくらいうれしかった」(後藤さん)

 いろんな思いが交錯するドーナツの味。

 後藤さんが通っていた小学校は、現在は統合され公園になっています。

「二宮金次郎大きかった気がする。これだったんだろうな…」(後藤さん)

 当時の面影が消えていくなか、記憶の中だけに残されていく戦争。いまは、3人の子どもと、孫、ひ孫もいる後藤さん。

「日本は平和だよね。今はね。平和になっていれば、いい子に育つと思いますがね。ずっと続いてほしいなと思うね」(後藤さん)

 

 忘れられない味は、“たった1人で食べた麦のお粥(かゆ)”。そう話すのは、橋本克巳さん(85)。

「うまいとかまずいとかを超越して、安堵(あんど)感というか…」(橋本克巳さん)

 戦争が終わり、1年近くもたってから孤児となったのです。

「私も何回か銃を突きつけられました。もうこれで終わりかと、子ども心に恐怖を通り越して言葉にならない思いだった」(橋本さん)

 橋本さんが終戦を迎えたのは満州、今の中国東北部です。愛知県新城市から家族で開拓団に加わりましたが、戦争が終わると現地の人などから襲われ転々と避難。

 たどり着いた収容所は衛生状態が悪く、家族が次々と病にたおれたのです。

「おばあさんが6月ごろかな…亡くなった。続いて1週間ぐらいたって弟が亡くなった。昭和21年(1946年)7月7日七夕の日、ちょうど12時ごろだったと思いますが、父が亡くなり、1時間後にお母さんが亡くなった。誰かの胸にすがって思いっきり泣きたかったという思い出が今でも残っています」(橋本さん)

 まわりの大人たちも生きるのに必死で、頼ることはできませんでした。さらに、残された幼い弟と妹も生死をさまよっていたのです。

「弟、妹は体力なく寝たきりでした。かわいそうに、ハエが卵を産みつけたのか、目や鼻からうじ虫となって、はいでてくる。それを取ってあげるのが私にできる唯一のことだった。今でも2年に1度くらいは夢を見てうなされる。“お兄ちゃん何とかしてよ”という叫び声が、今でも聞こえてくる気がする」(橋本さん)

 橋本さんにとっての戦争は、まだ終わっていません。

「朝起きて自分の周辺に身の危険を感じない、家族がいて笑顔を見ることができる。いついつまでも続いてくれよと、思うように努力しています」(橋本さん)

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