今年7月、第2代のJリーグチェアマンに鈴木昌(すずき・まさる)氏が就任した。
今年10年目を迎えたJリーグ。新チェアマンはこれまでの10年をどう捉え、今後をどうしようとしているのか。シリーズでお伝えします。



 私は94年に鹿島アントラーズの代表取締役に就任し、今回チェアマンに選出されるまでクラブ経営に関わってきました。一応私もサッカーはかじったことがあるのですが、アントラーズに関わる前はサッカーというのはやるのは面白いけど、見るのは面白いのかなあという思いを持っていました。それがアントラーズの存在で、鹿島という町が劇的なまでに“変貌”したのを目の当たりにして、非常に驚き、また感動したという経験をしました。

 私は大学卒業後に住友金属に入社し、74年に鹿島製鉄所勤務になって初めて鹿島の町に来ました。皆様ご存知のこととは思いますが、鹿島というところは昔は漁業などが中心の静かな町で、住金が工場を作ったことでそこに大量の地元以外の人が移り住み現在に至ってきたところです。いわば住金が来る前の「旧住民」と、住金が来てからの「新住民」が混在した町なのですが、両住民の「垣根」は、私が鹿島に初めてきた74年から20年以上たっても、取り払われてはいなかったという実感でした。旧住民と新住民がそれぞれ「タテ」の関係では結びついてはいるが、双方のつながりというのは作れないという状況でした。
ところが、アントラーズができて、Jリーグ元年である93年のファーストステージで優勝したら、そんな垣根が一気に吹っ飛んで、急速に町がひとつにまとまっていきました。それは本当に大きな驚きでしたね。
夜な夜な現われた暴走族が激減したり、東京の大学に行っていた若者がUターンして地元に就職するケースが増えたりという、表に見える現象面の変化もありましたが、なによりすごいなと思ったのは、町のすべての人が、サッカー、アントラーズの話題でひとつになったという、住民の意識の変化でしたね。育ってきた環境のちがう旧住民と新住民が心からひとつのことで会話し、心が通じ合うというヨコの人間関係の広がりは、現代社会では最も生み出しにくいものだと私は思っているのですが、それがいとも簡単に生み出された。しかも各世代間での会話も急速に増えた。

 鹿島という土地は、もともとサッカーに縁のある土地ではありません。そういうところが、プロサッカーのクラブができることで大きく変貌したのです。その様子を目の前で見てきて「サッカーには社会を変える強いインパクトがあるんだな」という思いを強く持ちました。
 全国いろいろなところを見てきていますが、そういう現象は他の地域でも確実に出てきているという実感はあります。地名を挙げさせてもらうと、仙台、札幌、新潟、浦和といったところは、「サッカーによって社会が変化してきている」と思います。







1935年(昭和10年)12月15日生 兵庫県神戸市出身
1954年3月
1955年4月
1959年3月
1959年4月
1974年4月
六甲学院高等学校 卒業
東京大学法学部  入学
東京大学法学部 卒業
住友金属工業株式会社 入社
住友金属工業株式会社 鹿島製鉄所 業務部運輸課長
 その後本社勤務を経て
1987年7月
住友金属工業株式会社 鹿島製鉄所 副所長
 ※ 1987年〜1988年 住友金属工業蹴球団 団長
1994年6月

2000年6月
2002年7月23日
株式会社鹿島アントラーズFC 代表取締役社長
社団法人日本プロサッカーリーグ 理事
株式会社鹿島アントラーズFC 特別顧問
社団法人 日本プロサッカーリーグチェアマンに就任




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