稲見駅長の鉄道だよ人生は!!

稲見眞一

“鉄道のまち”奈良・王寺町を巡る旅(9)亀の瀬トンネル。

旧大阪鉄道亀瀬隧道

亀ノ瀬トンネル(隧道)

亀の瀬トンネル

色々な書き方があるトンネルですが。ここでは現地で教えて頂いた表記に従います。

関西本線(大和路線)の湊町駅(現在のJR難波駅)~奈良駅間は、大阪鉄道の手により1889年(明治22年)から漸次開業区間を伸ばし、1892年(明治25年)に全通しました。

この区間で工事に手こずったのが今の河内堅上駅~三郷駅に作られた亀の瀬トンネル。

大阪と亀の瀬トンネルの西側までの開業は1890年(明治23年)。同じ年の1890年(明治23年)に東側となる王寺駅~奈良駅間も開通しています。先に書いた1892年(明治25年)の全通までの時間はトンネルの開通に要した時間でした。今日はこの明治時代に作られたトンネルの見学リポートです。

ところでこの区間のトンネル工事が手こずった理由ですが、それはこの一帯で地すべりがたびたび発生しており、それゆえトンネルをやっとの思いで完成させても直ぐに使える状況にならなくなったりなど苦戦を強いられたそうです。ここまでが前提です。

何だか新しいトンネルが2本。私たちはこの内、右側のトンネルに入りました。

トンネルを少し歩くと右側に分かれるトンネルがあり、そこに歩を進める。すると途中からレンガ積みになっているのが見えます。

きれいに保存されている明治時代のトンネル。と、見えます。

がれきで埋まっていて行き止まり。

ここは明治時代の大阪鉄道時代に作られた隧道。

実は1932年(昭和7年)に大規模な地すべりが発生し、この辺りの地形は大きく変わっています。その際、亀の瀬トンネルは崩落し、全て押しつぶされたものと思われていました。

この写真を撮影している場所は、大阪鉄道亀の瀬トンネルに近い場所。

現在の大和路線は、亀の瀬トンネルの大阪方で大和川を渡り、奈良方面に抜けていきます。しかし明治、大正時代はこの橋の右側から私のいる場所の方にトンネルで向かっており、つまり1932年からの風景をこれまで私は電車内から見ていたのです。

これまで数枚UPした大和川の写真がありますが、地すべりの『力』とは一言で言えば「川の路盤の下の土砂を動かし、川の流れる場所を変える」ほどだそうです。川が土砂で埋まるのではなく、川そのものを動かすと聞き、ただただ驚くばかりでした。

そのため国土交通省近畿地方整備局 大和川河川事務所ではかねてからこの地区の地すべり対策を行っており、その一つの有効な手段として地下水を抜く排水トンネルを造る工事を行っていました。そこで2008年に偶然見つかったのが先の明治時代のトンネル。

崩れて形を留めなくなっていたはずのトンネルが残っていた。それも一部とは言え、ほぼ原型を留めている。

トンネルの上部が煤けているのは蒸気機関車時代の名残。

トンネルの積み方が変わるのはそれぞれの場所に応じた最適な選択をしているから。

このトンネルの発見以前からこうなっていたようですが、ここを見ればどれほどの厚みのレンガでトンネルを造っていたかがよくわかります。ただこれを薄いと思うか厚いと思うかの結論は私の中では出ず。

トンネル内に多分、4~50分はいて説明を聞いたり質問をしたりしていました。

「亀の瀬地すべり資料室」(国土交通省近畿地方整備局 大和川河川事務所)。この地の地すべりの歴史、状況が分かりやすく展示されています。これまで私のなかで漠としていた「地すべり」のイメージは、初めて確固たるものになった気がしています。

日本の鉄道の歴史は、自然災害との長い戦いの歴史でもあったとしても、恐らく皆さんに受け入れてもらえるはず。大阪~奈良を結ぶ鉄道では、近鉄の長大トンネルが一番大変かと思っていましたが、関西本線では自然災害とどう折合いをつけるかという課題を乗り越えてきたことに感無量です。

なおこの一帯は日本遺産「龍田古道・亀の瀬」として認定されており、地元の大阪府柏原市と奈良県三郷町ではこの亀の瀬トンネルを含め、「もう、すべらせない!! 龍田古道の心臓部「亀の瀬」を越えてゆけ」というキャッチフレーズで広く広報しています。ウォーキングマップも出されており、またトンネルを含めた地すべり対策の見学会も国土交通省近畿地方整備局 大和川河川事務所が行っています(要確認)。もっとも一番手軽な見学は私たちのようなツアーへの参加ですが、あまり回数は多くはないでしょう。今回ここを訪れたことで、私にとって多くの方に足を運んで頂きたい場所がまた一つ増えました。

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