稲見駅長の鉄道だよ人生は!!

稲見眞一

名古屋の鉄道136年史(昭和戦前編2)昭和初期の鉄道と観光地。犬山と日本ライン。

●昭和2年(1927年)初夏「日本ラインを中心とせる名古屋鉄道沿線名所図絵」(吉田初三郎/名古屋鉄道)

この図絵はタイトル通りの沿線観光ガイド。ただウェブサイトでの公開用に画像の画素数を小さくしてありますので、個々の地名は読めないと思います。まずはこれが本来の縮尺を無視したというか、そういう実尺を超えた「地図」だと思ってください。地上をぐるりと取り囲んでいるのは木曽川。真ん中の場所は愛知県の尾張エリアです。そしてこれを描いた絵師は吉田初三郎。

(吉田初三郎とは:国土交通省国土地理院 > 子どものページ > 測量・地図ミニ人物伝 > 吉田初三郎 から転載)

吉田初三郎(よしだはつさぶろう)は、すぐれた鳥瞰図(ちょうかんず)作家として知られています。
彼が描(えが)いた鳥瞰図は、大正から昭和にかけて、1000種にも上るといわれます。その作品は今でも熱烈(ねつれつ)な初三郎フアンを夢中にさせています。鳥瞰図とは、その字のとおり、大空高く舞い上がった鳥が地球を見たとしたら、こんなふうに見えるだろうというように書かれた、楽しい地図です。

京都に生まれた吉田は、はじめ友禅(ゆうぜん)おりものの図案の職工(しょっこう)をしていました。その後、上京して絵の修行をしていましたが、先生から進められて絵師(えし)の道に進むようにいわれました。

最初に描いた鳥瞰図「京阪電車沿線名所図絵」(大正2年)が、時の皇太子殿下(昭和天皇)の目にとまり、「これはきれいで分かりやすい、ともだちのおみやげとして持ち帰りたい」とほめられたことから、みとめられ、たくさんの鳥瞰図を描きました。
とくに、日本全国の「鉄道旅行案内」に鳥瞰図をえがき、多くの人を知らない土地へ案内しました。

「私は、大正の広重(ひろしげ)だ」といっていた彼の目には、大空を舞う大わしが見たよりも素晴らしい風景が見えていたのでしょう。

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この説明の通りで、私も吉田初三郎に魅せられた一人。多くを所持するまでに至りませんが、少しは私の手元にもあります。4月22日にアップした『大正10年(1921年)10月5日「鉄道旅行案内」(鉄道省)』も吉田初三郎の絵を中心に構成された一冊で、鳥観図ではありませんが、出だしの富士山だけでも私の心はノックアウトされました。

さてこの図にある名古屋鉄道とは現在の「名古屋鉄道」の起源となる会社の一つではありますが、同一ではなく、昭和5年(1930年)9月5日に社名を「名岐鉄道」と改称し、その後に他社と合併し現在の名古屋鉄道となっています。

この図の「柳橋」とあるのが当時の名古屋鉄道のターミナルで、押切町から柳橋までは名古屋市電に乗り入れていました。名古屋鉄道とは名古屋市電の起源となった名古屋電気鉄道の内、名古屋市内の路線を名古屋市に譲渡したのちの、郊外線を引き継ぐべく大正10年(1921年)に設立された会社でした。

当時の名古屋鉄道の一押し観光地が「犬山」エリア。

犬山城と犬山橋駅(現・犬山遊園駅)との間には広大な「犬山遊園地」があります。

●昭和36年(1961年)11月「写真でみる名鉄の今と昔」(名古屋鉄道)

今の犬山のイメージとは随分離れている気もしますが、大正から昭和にかけての謂わば最先端の観光施設であると推察しています。

木曽川では鵜飼が行われています。

鳥観図の裏面には各観光地の写真と解説があり、「犬山の鵜飼」が当時の名古屋鉄道の“推し”だったことが読み取れます。

岐阜県美濃加茂市から愛知県犬山市にかけての木曽川沿岸の峡谷美を「日本ライン」と呼ぶのは、この地方に住む方ならご存じの方も多いかと思います。昭和2年発行のこの図絵の表題にもなっている「日本ライン」ですが、その英語の案内があるのには驚かされました。その1番最後の一文、「名古屋から電車でたった1時間の場所」とあります。また電車の意味で「trolley」が使われていますが、これは「市電」「路面電車」という意味で使われることが多く、当時、名古屋鉄道で使用されていた電車がそのタイプだったということでしょう。

今も犬山観光の象徴たる犬山城。

犬山城の天守から上流/犬山橋方面を臨む。

こちらは下流方面。

この風景があればこそ、95年という長い年月が流れようとも犬山は今も一大観光地であり続けていると思います。

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