地下鉄東山線、桜通線今池駅から北東に15分ほど歩いたところにある千種公園。
5月下旬から6月中旬にかけて、色とりどりのユリの花が咲き、多くの市民が足を運ぶ公園です。
その千種公園は、「名古屋陸軍造兵廠千種製造所」という軍需工場の跡地で、太平洋戦争末期、空襲により多くの方が亡くなった場所です。
そしてこの碑は、「民間戦災傷害者の碑」として2014年(平成26年)に名古屋市の手で建立されました。「痛みを共有し、継承を」に続く解説は、是非一度この地に足を運んでお読み頂ければと思うのですが、ここには空襲による被害の写真も展示されています。
昭和20年(1945年)3月19日の名古屋駅。
昭和20年(1945年)5月14日の名古屋城。
● 国立公文書館デジタルアーカイブ「防空関係資料・全国主要都市戦災概況図・昭和二十年十二月・第一復員省資料課」
名古屋市における昭和20年(1945年)当時、空襲を受けた場所を特定する地図。当時の名古屋は、日本でも有数の軍需工業都市であり、その軍需工場を中心に、広い範囲で爆弾、焼夷弾が落とされていたことが分ります。
●昭和19年(1944年)10月15日「名古屋市全図」(日本地図、広瀬俊幸)
昭和19年の地図。実はよく見ると不思議な地図。
名古屋駅には「名鉄」「関急」の文字が見えます。
今の金山から神宮前にかけての地図。名鉄の路線ははっきり記されています。
白い矢印の先に注目。この線は国有鉄道(東海道本線)です。
これまでの地図では大体において国有鉄道はくっきり描かれているのですが、この昭和19年の地図では存在感がありません。
この地図だけではなく、国有鉄道が薄らとしている昭和19年発行の地図が他にもあることを私は確認しています。同時期の地図で、東京など他のエリアの地図でこうした処理がなされた例はないとも聞いており、軍需都市名古屋だけの事情だったのかも知れません。