稲見駅長の鉄道だよ人生は!!

稲見眞一

名古屋の鉄道136年史(昭和戦前編7)続、名古屋市の人口が100万人を突破(?)した昭和5年頃。

今日のテーマの前に、以前書いた記事で、書き忘れがあった点を補充。本当は4月9日、10日にアップした中で触れるべきでした。

それは「笹島」電停が「名古屋駅前」に名前を代えたお話し。

4月9日の『名古屋の鉄道136年史(大正時代4)名古屋電気鉄道から名古屋市電気局へ。市営交通の始まり。』でアップした路線図では「笹島」電停。

4月9日にアップした『名古屋の鉄道136年史(大正時代5)市営交通が始まった時代。』では「名古屋駅前」。

大正11年(1922年)8月1日の名古屋電気鉄道から名古屋市となった時に改称されています。名古屋に到着した、もしくは名古屋から出発する方にとって、「笹島」よりは格段に分かりやすく、市営化は改称するにぴったりのタイミングだったのでしょう。もっとも名古屋電気鉄道の開業時になぜ「笹島」にしたのだろうと思ったものの、「OO駅前」という名前の付けかたがなかったのかも知れせん。因みに中央本線千種駅の駅前の電停が「千種駅前」になったのは昭和の時代に入ってからで、それまでは『千種」でした。

●昭和8年(1933年)9月21日「大名古屋」(名古屋市役所)

昭和5年当時の名古屋市。東区、西区、中区、南区の4区がありますが、東西南北のうち、北がありませんが、町の中心地が北に寄っていたので無かったのでしょう。

●名古屋市役所のウェブサイト~観光・イベント情報~名古屋市のプロフィール~市の概要~(現在の位置)市域のうつりかわり

現在の市域では更に名古屋市が拡大していったことが分かります。もっとも昭和5年当時の市域であっても100万都市となった名古屋の存在感は十分に合ったと思われます。

●昭和8年(1933年)9月21日「大名古屋」(名古屋市役所)

 *以下の写真は、「大名古屋」からの転載です。

街の中心を貫く広小路通り。道路も広いですが、並木のある歩道の広さは特筆すべきでしょう。この風景はきっと当時の名古屋人のプライドをくすぐったでしょう。。

当時の名古屋を支えた大工場。

日本陶器は現在のノリタケカンパニーリミテド。名古屋製陶所は鳴海製陶。日本碍子は現在表記社名を「日本ガイシ」としています。

何れも今も名古屋を代表する企業です。

鉄道ファンにとって忘れてならないのは日本車輌の存在。左奥に蒸気機関車が牽く長い編成の客車列車が見えますが、そこが東海道本線熱田駅。

名古屋港に目を向ければそこには巨大な船が停泊中。

市電の路線網も充実し、この本のタイトルである「大名古屋」と言うのもあながち大風呂敷とは言えないものと感じます。

こちらはバスの路線図。当時の市内をかなり広範囲にカバーしています。

こちらは郊外に伸びる省線、私鉄、路線バス網。

今と決定的に違うのは近鉄名古屋線が無いことでしょうか?もっとも名鉄はまだ名岐鉄道と愛知電鉄の時代で名古屋駅に直結する前です。

名鉄小牧線はまだ電化される前で、地図上ではガソリンカーと表記されています。そもそもですが、名岐鉄道に非電化の路線があったのを今回、初めて知りました。

広小路通りも少し東に抜けるとそこは住宅街(に見えます)。行き交う市電もどこかノンビリした感じに見受けられます。それにしても今の姿と比べるのは意味が無いと思える変わりようですね。また高い建物がないだけで随分と街が広く感じられます。

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