稲見駅長の鉄道だよ人生は!!

稲見眞一

名古屋の鉄道136年史(明治時代10)明治31年。名古屋市電の開業時は右側通行だった。

日本の鉄道は左側通行!と言うのは皆さん、疑う余地は無いと思います。

でも明治時代の日本には右側通行の鉄道がありました。それが明治31年(1898年)の開通から明治39年(1906年)3月までの名古屋電気鉄道。

この写真は『昭和27年(1952年)8月1日「市営三十年史」(名古屋市交通局)』の17ページに掲載されているものと同じですが、NPO法人名古屋レール・アーカイブスでも所蔵しています。

さて注目は電車が走っている線路。見て頂いたとおり現在の通行区分とは逆向きであることが分かります。その理由は広小路通の北側に偏って(かたよって)線路が敷かれたため、歩行者の安全確保のためだったそうですが、何故それで“逆走”ということになったのかが私の腑に落ちません。ただ当時の道路行政の要請があったのかなあとは思いつつ…。

それはともかく明治39年に線路の位置が道路中央に移設され、右側通行の時代は終わりました。

またこの写真のもう一つの注目ポイントは行先が「笹島行」と読めること。明治時代に撮影された名古屋市電(当時は名古屋電気鉄道)の写真は結構あるのですが、行先がはっきり読めるのは、私が調べた限りではこの1枚のみです。

こちらの絵はがきも右側通行時代の名古屋市電。「名古屋名所 征清紀念碑」とありますが正式には「 日清戦役第一軍戦死者記念碑」

明治27年(1894年)から明治28年(1895年)にかけて日本と清国(今の中国)との間で行われた日清戦争の戦没者の霊を慰めるべく作られたモニュメントで、明治33年(1900年)完成、明治36年(1903年)5月に竣工式が執り行われました。

●明治35年(1902年)8月10日「名古屋熱田明細地図」(加藤新蔵) 所蔵:NPO法人名古屋レール・アーカイブス

「 日清戦役第一軍戦死者記念碑」があった場所(地図の赤丸で囲んだ部分)は今の中区役所あたりだと思って下さい。なお明治36年竣工なのに明治35年の地図に記載がある理由は調べても分かりませんでしたが、碑そのもの(銅製の上部のみ.石で作られた台座を除く)は明治33年に完成しているので、この地図を作った段階ではもう既に存在していた(建造中?)であろうとは推察されます。

更にこの地図で不思議なのは名古屋市電の存在。地図中の点線がその線路のある場所なのですが、左(笹島方面)から来た線路が、碑の南側を回って右(千種駅方面)に向かっています。この右に向かう線路が開通したのは明治36年(1903年)1月31日。地図を作っている段階では間違いなく工事中なので、先を見越してまあ記載したとしても問題は無いとは思うものの、私の感覚では意外に感じたのでここで紹介することとしました。

●明治35年(1902年)5月26日「名古屋新図」(若山文二郎) 所蔵:NPO法人名古屋レール・アーカイブス

因みにですが、前の地図と同じ年に発行された地図。西の方角が上部となっているのはともかくとして、碑は既にあるものの線路(私が足したヘロヘロの赤線左側の線)は(当時の終点)県庁前から東方向(画像下方向)に伸びていません。

ところで「 日清戦役第一軍戦死者記念碑」は今もその姿を、地下鉄東山線覚王山駅の北東にある日泰寺霊堂の北側で見ることが出来ます。大正9年(1920年)にこの地に移設されており、明治の時代に思いを馳せつつここを訪れるのは名古屋の歴史を知る上でお勧めです。

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