78日間で480万人が入場した名古屋汎太平洋平和博覧会への足はどうなっていたのでしょうか?
これは当時の名古屋市電の路線図で、野立~博覧会正門~築地電車前を結んだ野立築地口線は博覧会スタートの直前、昭和12年(1937年)3月11日に開業し、この線がメインルートでした。
●昭和12年(1937年)3月30日「名古屋汎太平洋平和博覧会画報」(朝日新聞社)一部
一昨日もアップした写真ですがもう一度確認のために見ていただきます。
●昭和12年(1937年)3月26日「名古屋汎太平洋平和博覧会案内図」(名遊社)
その右下にあるのは昨日紹介した車輌陳列場。そこから直ぐのところに西門があり、臨港線鉄道停車場があります。
●所蔵者である特定非営利法人 ビジュアルコンテンツプロダクトネットワーク/Network2010事務局さまの了解を得て、ウエブサイト「Network2010」)から転載。
※ホームページ⇒アーカイブス(名古屋の歴史)⇒昭和初期⇒名古屋汎太平洋平和博覧会⇒当該写真
鉄道省名古屋駅から今のJR貨物名古屋港線(なごやみなとせん)を通り、ここ名古屋博覧会前駅まで、博覧会期間限定の列車が走っていたことはあまり知られていません。この写真を上記ウェブサイトで見つけたときは小躍りしましたが、この写真では行き止まり式の線路配置ですので停車中の車輌はここから向こうに走ることになります。上の図とはイメージが異なることとなり、さてどうなっていたのだろうと思っていたところ、知人からアドバイスあり。
『ネット上に「名古屋汎太平洋平和博覧会写真帖」というサイトがあり、そこにある「明細案内図」が参考になるのでは?』というもので、私が求めていた答がそこにありました。
やはり名古屋港線の本線上での折り返しではなく、本線からの引込線があり、そこに駅が描かれていました。正にこの写真の通りで、各社各様の会場図が出回っているという何かにつけておおらかな時代を感じています。
●所蔵…NPO法人名古屋レール・アーカイブス
一方こちらは名古屋駅。同じ形の車輌が停車中です。
この車輌はキハ42000形、後のキハ07形。昭和9年(1934年)に製造され、当初はガソリンを燃料にしていましたが、後にディーゼルエンジンに置き換えられました。
今もJR九州の九州鉄道記念館で静態保存されており、その姿を見ることが出来ます。
因みに国の重要文化財(美術工芸品)に指定されています。
●昭和12年(1937年)4月1日「名鉄グラフ4月 No.13」(鉄道省名古屋鉄道局)から抜粋
名鉄グラフと言っても名古屋鉄道の名鉄ではなく、名古屋鉄道局の名鉄です。
これを見ると20分間隔のダイヤの時間もあり、当時の鉄道省の路線(名古屋界隈)ではあり得ない運転本数の多さだったことは間違いありません。ところでこの時刻表から、途中のどこかで列車の交換を行っていたことが伺えます。
かつては交換設備があった八幡信号所。(2016年11月9日撮影)
名古屋港線は開通時から、そして今も貨物線。そうした路線でガソリンカー(旅客列車)が行き違っていた!これはあくまでも私の憶測ですが100%の自信ありです。「これだから鉄道の歴史調べは止められない」と思った次第。
もっとも昭和17年(1942年)8月10日から暫くの間、名古屋駅~名古屋港駅間で軍需工場への通勤列車が運転されています。その列車の時刻は見つけられませんでしたが、恐らく途中での交換は行わなかったであろうと思っています。更に言えばこの列車に乗るには定期乗車券を持っていることがマストであり、上記については「誰でも乗れる列車」と言うことでの話しです。と言い訳付き。
※参考:「名古屋駅八十年史」(昭和42年3月28日 名古屋駅)
また博覧会の会期中は東海道、中央、関西の各線に、本数は多くないものの臨時列車も運転されており、さすが名古屋の威信をかけたイベントといったところでしょうか。
●昭和12年(1937年)4月1日「名鉄グラフ4月 No.13」(鉄道省名古屋鉄道局)から抜粋
「賃金も市電並に六銭に割引する」という上から目線の物言いながら、どことなく低姿勢を感じてしまう。
併走する他の鉄道への対抗手段としては、今のJR関西本線名古屋駅~四日市駅間の運賃が重なってしまった。