真夜中のドキュメンタリー

2019年9月7日(土) 25:05放送

バヤルタイ モンゴル抑留 72年越しのさようなら
#08 バヤルタイ 〜モンゴル抑留 72年越しのさようなら〜

74年前に第二次世界大戦が終わっても、「抑留」という悲劇によって、戦争の苦難が終わらなかった人たちがいます。「シベリア抑留」を知る人は多くても、「モンゴル抑留」はあまり知られていません。
しかし、モンゴルへも1万2000人が移送され、1600人以上が死亡しました。
1945年からの2年間、モンゴルで何があったのか。モンゴル人である私は、母国で起きた悲劇について、知りたいと思いました。

モンゴル人記者として、「モンゴル抑留」を知りたい

私ホンゴルズルと友弘さん

私の名前は、オユウンチメグ・ホンゴルズル。モンゴル出身の38歳。いまは中京テレビで報道記者をしています。

私が「モンゴル抑留」について知ったのは、日本で働き始めていた2011年。自分が通ったモンゴル国立大学を建てたのが日本人抑留者であったことを伝える、モンゴルの新聞記事を読んだのがきっかけでした。社会主義時代が長かったモンゴルでは、日本人抑留者の存在について、学校教育などで教わることはありませんでした。

「モンゴル抑留」から生還した、友弘正雄さん(94)

友弘正雄さん、94歳

抑留について知るため、抑留経験者が年に1度集まっていた「モンゴル会」を取材。
そこで出会ったのが、神戸市に住む友弘正雄さん(94)でした。

満州で終戦を迎えた友弘さんは、ソ連軍によってモンゴルの首都ウランバートルまで、シベリア鉄道や徒歩で、またトラックの荷台に乗せられて移送。時は11月下旬、モンゴルではすでに冬が始まっていて、道中で足が凍傷にかかり、生きるために両足を切断しました。

友弘さんは戦後、1972年に日本とモンゴルの国交が樹立されて以降、モンゴルの大地に残された戦友たちの墓参と遺骨収集のため、毎年のように墓参を続け、その回数は40回を超えました。

しかしそんな友弘さんも94歳。「終活として、向こうで死んでもいいから、最後の慰霊に行く」と連絡が入りました。同行したいとかねてから約束していた私は、迷うことなく同行を決めました。

友弘さん最後の旅に同行 そこで見たものは

日本人抑留者たちを写した貴重な映像も

私が生まれ育ったモンゴルの首都・ウランバートルには、日本人抑留者が強制労働で建設した建物が数多く残っています。友弘さんは、その工事中の様子をありありと語ってくれました。

自分の足を切断することになった病院に、72年ぶりに入った友弘さん。
当時とほとんど変わらない建物のなかで、悲惨な抑留中の病院内の様子について思い起こしてくれました。

予想だにしなかった再会

さらに、奇跡の再会も。
友弘さんは戦後、モンゴルのいわゆる「マンホールチルドレン」たちを支援しようと、孤児院を運営していました。現在は活動が終了している孤児院を、友弘さんが訪れたことを知ったかつての教え子の女性が、私たちの滞在先を訪ねてきてくれたのです。

旅の終わりは、日本人抑留者の慰霊碑が建てられている場所。
現在は遺骨返還によって日本に移されましたが、かつては800人以上の日本人の遺骨が埋葬されていた場所です。
その慰霊碑が立つ丘へ向かって、友弘さんが大声で叫んだ言葉は、私にとって一生忘れないものとなりました…

戦友たちに最後の別れを

日本でも、そして私の母国モンゴルでも、ほとんど知られていない「モンゴル抑留」という事実。
多くの人に知ってもらえたらと思います。ぜひご覧ください!

中京テレビ ドキュメント

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